記念行事


他県ではどうか知らないが、東京都の場合、10周年ごとに記念行事がある。中身としては、どこの学校も、記念式典、生徒発表会、記念誌の発行、記念品配布、祝賀会を行っていると思う。

私は四校目で記念品を担当した。最初は記念行事委員でも何でもなく、ただの一教員でしかなかった。どうして首をつっこんだかというと、記念品に良い案が無く「日本手拭い」になりそうだと聞いたからだ。一枚500円だという。予算は100万円。メーデーではいつも日本手拭いが配られるので、まったくメーデーじゃあるまいし、と思った。私としては吹奏楽部も活躍していることだし、校歌のCDが欲しかった。それで、そんな話をしたら、あとづけの委員にされてしまったのである。このときは業者選定からCD、ジャケットのデザインを全部一人でやった。それなりに大変だったが、まあ自分なりにCDが欲しかったし、自分で立候補したようなものだから、納得済みである。

一度だけすごく怒った。業者選定に関してである。単に子供の朗読ならとにかく、音楽に関してなので、業者選定を間違えればひどい録音になる、と私は聞いて知っていた。一般的に東京都では入札制度であるが、果たしてそれでいいのか。ネットで調べると値段は千差万別で差がすごかった。結局、縁故(?)を頼って定評のある作曲家の録音を手掛けている業者にお願いした。校内としてはその業者でOKだった。私としては身銭を切って仲介者にお礼に行ってきた。(仲介をお願いしたわけでもないのに、業者に電話して「こういう人から連絡がいくから、安くやってくれ」と、先回りしてお願いしてあったのだ。「○○さんの紹介だから安くしますがね。」とその業者が言ったのでわかった。)ところが、室長が「その業者に他の業者の相見積もりを出させてくれ」というのである。「そんな失礼なこと、できません!」「ちっとも失礼じゃない」...(この人は、話したって通じない)と思った。職員室に帰って、教頭に「私、やりませんから。下ります。」と言った。事情をきく教頭に、「室長がビクターでもコロンビアでも電話帳で調べて見積もりをとればいいじゃありませんか!」と怒鳴った。私にやめて欲しくない教頭は室長に電話して、「あのね、ビクターとコロンビアを電話帳で調べてね...」(よくもオウムみたいに喋れるもんです。)まあ、それでケリがついた。

学校を異動して一年も終わる頃、記念行事委員会を作って準備した方がいい、という話になった。今度は主幹(主任)として最初から委員だった。「はぁ、またですか?この間やったばかり。」と言ったら校長も「僕も去年やったばかりだ。」と冴えない表情。しかも予算がまるでないのだ。都から記念行事費として配布される金額は記念誌代でお終い。その他の予算はPTA会費から毎年積み立てているのだが、前任校の十分の一くらいしかない。前任校では外の会場を借りて式典と発表会をしたのだが、そんなことは勿論到底無理。というか記念品代も微々たるものでしかない。

日程を決めるのも、大きな行事として修学旅行や文化祭があり、どうしても11月頃になってしまう。すると体育館では暖房設備がなくて寒い。ガスストーブを借りると8万円、その予算もないのでホッカイロを配るとかみみっちい話になった。記念品はクリアファイルとボールペン、確かこれで100円だったような。

私は記念誌を担当したのだけれど、副校長が記事の案を作って、最初から字数制限を設けて入力しなくても済むように「FDに入力して提出してくれ」とした。それで、私のした仕事としては、紙で提出された原稿の入力と、過去10年の写真をアルバムから抜粋してスキャナーで取り込むなどの作業をした。「時間がないから、いちいち形式ばって委員会を開かないで、適当に連絡しながら、作業を進めましょう」というのが私の意見。というのは、前任校でやたらに委員会を開いて、大した妙案もなくいたずらに時間をくった、という記憶があるからだった。その意見に副校長が賛成してくれたのでよかった。私はどの記事が集まったかわかるように、フォルダ分けして、目次からwordファイルにリンクするように整理していた。

ある時、突然、印刷屋が私のところに来て、「原稿をもらいたい」と言う。「はい?誰がそう言いましたか?」「副校長先生が」「ええー?聞いていませんよ。まだ全部集まっていないし...」結局、全部集まらなくてもあるだけ貰っていきたい、という印刷屋の意向だったのですが。その印刷屋が言うには、「こんな風にまとまっていると嬉しいです。A高校の時は原稿がメチャクチャだった...」(想像がつきますが、それがいやだから私は整理してあったのですよ。記事一つが半ページで50ページ強だからファイルは100を超えます。)まあ、とにかく学校内部でもこの位連絡ができないほど忙しいんですよね。

当日、会場には“日の丸”の旗を立てなくてはならない。すると校長は「職務命令」を出さねばならない。おまけに私は主幹として司会をやらねばならない。ところが、職務命令を校長室で受け取ってハタと困った。父の具合が悪く、いつ危篤と言われるかわからない状態だったのです。「ですが...」と事情を話すと校長はすぐ理解を示してくれて、「その時はその時。仕方ないよ。」と言ってくれた。

案の定、その翌日、電話で「もう駄目じゃないかな」と連絡を受け、翌早朝、飛行機で実家へ。父が亡くなり、通夜・葬式を済ませて、自宅へ戻ったのが水曜日だったと思う。木曜日出勤したら、副校長が「ちょっと、ちょっと」と私を脇へ呼び寄せる。お悔やみを言うのかな?と思ったら、「A先生が網膜剥離で入院した。」と言う。A先生というのはもう一人の主幹だ。咄嗟に「生徒にやられたの?」と質問する私。「いや、そうじゃないんだ。」主幹ではあるが、管理職意識が皆無の私は一瞬、(じゃ、私にどうしろと言うの?)と思った。なんせ、父の葬式をしてきたばかりだし、時差ぼけみたいなものでぼーっともしていた。(それに主幹の試験を受ける時、管理職ではない、として受けたんですよ。管理職で無いのに職務命令が出せるという変な職種です。試験は面接だけで倍率は1.37倍。1倍を切った年もあったとか)A先生は式典第Ⅱ部(生徒発表)の司会をする予定で、私が葬式から帰らない場合、私の分の第一部司会もすることになっていた。結局、実際は全く逆になって私が第二部の司会もすることになった。式典は翌日。校長・副校長はただひたすら心細くて“藁にもすがる思い”だったに違いありません。その藁が私なのでした(^^; 後に校長が「帰ってこなかったらどうしようかと思った。」と言ってました。水曜日に帰ると電話を入れたのですが、それでも実際帰るまでは安心できなかったらしいです。

当日の金曜日、11月下旬でしたが、不幸なことに例年になく冷え込んだ。暖房は全然無く、ホッカイロもいつの間にか忘れられて、自分の身は自分で守る状態。私個人としては勿論身体のあちこちにホッカイロをくっつけていた。生徒の欠席は多かったのですが、「そんなことはどうでもよろしい」で、大過なく終わったと思う。

印象に残るのは、日程を検討した筈なのに、恐ろしく忙しい1週間でした。保護者会もあり、実家に行く前に私の分の資料を作っておいたのですが、「綴じなくちゃいけないな」と思って帰ってきたら、ちゃんと綴じてあり、ほっとしました。気を利かせた進路部のメンバーがやっておいてくれたのです。他には学校運営連絡協議会がありました。まあ、これは出席して話せばいいだけですが...ふうっ、なんでこんなに1週間に行事を詰め込んじゃったのかな。そうしているうちに定期考査になって試験問題を作らねばならなかった...。私が実家に帰っている間に学校の方では生徒が何か事件を起こしたらしく、細かくはききませんでしたが、後に副校長は「思い出したくも無い」という様子でした。

*読み返してみると文体の統一がありませんね。m(_ _)m 
記事ちゅう、教頭と副校長という呼称がありますが、現在は教頭という呼称はなく、副校長に名称変更されました。また室長というのは管理職事務長です。

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